鈴木工務店の家づくりと3代目 鈴木太の想い
鈴木工務店創業、職人気質の頑固社長
鈴木工務店は、昭和20年10月7日 祖父 鈴木太一が終戦後に新城市大野の地で起業しました。
初代は、尋常高等小学校卒業後、豊橋市内の大工親方の下で大工修行。
その後、結婚して当地新城市大野に住居を構からも、個人大工として、大工仲間とともに大工業に邁進していました。
が、大東亜戦争がその頃には激しさを増し、衛生兵として中国に出兵。
その後内地に転戦し、終戦を迎えます。
そして、終戦間もない昭和20年10月7日、大野の地で鈴木工務店を創業。
『見えない部分にも細心の気配りをし、職人の腕もかける』
これが、初代のモットーでした。
この通りの、“職人気質”の頑固さで、当初から匠の腕を活かした家づくりを行ってきました。
とにかく、現場一筋。「営業なんかしんでもいいんだ」という程の頑固さ。
時間があれば木材市場に行き、より良い木材を求めて丸太を見定める、そんな職人社長でした。その現場への想い、妥協しない家づくりへの姿勢から、地域のみなさんから仕事の依頼をいただくことに。
祖父が建てさせていただいお客様に伺った時も
「本当にしっかり建ててもらったので、今でも全く狂いがなく、経った年月の味わいが出ている」
と言って喜ばれています。
鈴木家の長男として生を受ける
そして、昭和51年6月1日に「株式会社鈴木工務店」へと組織変更。
その3年後の昭和54年9月27日に鈴木家の長男として生を受けます。
初代である祖父、祖母、父、母、姉の6人家族。
幼い記憶として、毎朝出勤する祖父と父を見送っていたことを覚えています。
こどもの頃は、よく会社や作業場で遊んでいました。
当時は珍しかっただろうコンピューターでゲームをしたり、作業場で大工さんに遊んでもらったり。
大工さんもやさしい人ばかりで、かわいがって遊んでくれました。
野球による親子の絆
父は仕事や地元のお付き合い、消防団で忙しい暮らし。
でも、休みには家の前でキャッチボールをしたり、夏には川に連れて行ったりと遊んでくれました。
父は自身も野球をやっていたこともあり、キャッチボールで投げる球が強くて。正直、イヤなときもあったけど、いい思い出ですね。
小学校2年生のある夜、突然何も言わずに(という記憶です)連れていかれたあるお宅。
そこは、地元の少年野球チーム「東陽少年野球クラブ」の監督さんの自宅でした。そこには、10人前後の同級生の姿も。
その日から東陽少年野球への入部が決まりました。
選手として試合に出るようになると、父もよく見に来てくれていました。
また、自宅で素振りをしているときにも、よく見てくれていましたね。静かに見ながら、ジェスチャーでスイングの状態を示してくれたり、時々アドバイスをくれたりしました。基本的に、見守っているという感じでしたね。
突然はじまった野球との関わりでしたが、そこから中学、高校、大学、大人になっての草野球と長く続けることに。
親子の会話も野球の話題がどんどん多くなっていきました。
今はもう10年以上やっていませんが、あの時野球をはじめて良かったと思っています。
2代目に承継、「marutaHOUSE」誕生へ
平成元年8月18日には父 鈴木 一三六が2代目社長に。
承継後も、祖父の培ってきた家づくりの良さをベースに、みなさまのニーズに応える家づくりを行ってきました。
しかし、時代は変わり、20代、30代の若い方が主に家づくりをされるようになりました。
その中で営業に伺っても、
「鈴木工務店さんのつくる家は丈夫でいいことは知ってますが、費用が高く私たちの予算ではとてもお願いできません」
と言われ、
『父 太一の頃から受け継ぐ自社職人の腕を活かした家づくりは間違ってはいない。
今の若い世代が家づくりをする時代には、合っていないのか』
と思い悩む日々。
その時に知ったのが、2023年に解散した「JAHBnet(当時アキュラネット)」の高性能・低価格の家づくり。
ハウスメーカーのアキュラホームさんが工務店支援として家づくりのコスタダウンのノウハウ「アキュラシステム」を全国の工務店に提供していました。
・FCではなく、鈴木工務店として事業ができること
・元々の当社の家づくりを活かし、コストダウンが図れること
この点を重視して、当時の棟梁とともに説明会を聞き、「これからの鈴木工務店には、これが必要だ!」と決断し、自社の家づくりにこのノウハウを導入しました。
そして平成12年、高性能・低価格の自社ブランド『marutaHOUSE(マルタハウス)』が誕生しました。
これまでの鈴木工務店の家づくりの良さでもある、
『自社の職人の腕を活かし、現場でお客様の想いをカタチにする』
ということを守りながら、合理化を図りコストを抑えています。
和風住宅も建てられる自社職人の技術、合理化によるコストダウンを中心とした高性能でありながら適正価格の住まいです。
新城市内だけでなく東三河から浜松まで多くのお客様のお家を建てさせていただきました。
3代目への決断
小さな頃から、よく会社に出入りしていましたが、一度も誰にも「3代目になるんだぞ」と言われたことはありませんでした。
鈴木工務店を継ぎたい、と思ったのは学校の宿題がきっかけ。
よくある「お父さんの仕事について調べよう」という宿題で、父に仕事のことを聞いたときです。
「仕事のやりがいは?」と聞くと、こう答えてくれました。
『父さんの仕事、家を建てるということは地図に残る仕事だ。
さらに、その家でお客さんが生活をしているのを見るのがやりがいだな。』
この言葉がきっかけとなり、鈴木工務店を祖父と父の後を継ぎたい、と思うようになりました。
父には恥ずかしくて直接言っていませんでしたが、中学3年で高校進学を考えるときに、後を継ぐためにはどのような進路がいいのか、と母に相談したことが家族に想いを打ち明けた最初だった気がします。
就職、そして鈴木工務店へ
高校、大学へと進学し、就職先を考える時期になった大学3年の秋。
初めて、父に後を継ぎたいという想いを告げ、就職先を相談しました。すると、
「社長になったら仕事をとってこないといけない。だから、ハウスメーカーで営業を経験してきなさい。」
と言われました。
そうなんです。
地元の大工さんのいる工務店、というと社長自身が大工ということが多いですが、私は営業をしてきたので大工としての経験がないのです。実は、父も現場監督の修業をして鈴木工務店に入っているので、大工経験がありません。その点では、珍しいパターンだと思います。
アドバイス通りにハウスメーカーに就職し、ここで父が話してくれた工務店という仕事のやりがいを実感しました。お引渡ししたときのお客様の笑顔、そして後日伺ったときにその家で生活されている様子を見たときはうれしかったですね。
その想いは、もちろん今でも変わりません。
建てさせていただいたお家の前を通ると、洗たく物が干してあったり、お子さんの自転車があったり。夜に通れば、もちろん明かりがついていて。
鈴木工務店が建てたお家で、お客様の暮らしがある、といううれしさ、やりがいを感じる瞬間です。
ハウスメーカーでは4年間お世話になり、2006年に鈴木工務店に入社しました。
令和時代、多様な想いを実現する家づくりに向けて
ハウスメーカーのときは、営業マンは営業だけで現場の管理は現場監督さんがやってくれます。
なので、鈴木工務店に入社してから、現場の勉強をしました。
そこで、感じたのは大工さんや職人さんのすごさ。
一つひとつの仕事を丁寧に仕上げ、お客様の想いをカタチにしてくれます。
さらに、今の大工さんたちはお客様との打合せも。
鈴木工務店の大工さんは、以前には昔ながらの職人気質の大工さんもいましたが、今は若い大工さんが中心。にこやかで話しやすく、お客様も現場でニッチや造作棚のことなど、色々なことを大工さんに相談しながら、自分だけのお家をつくっています。
そして、令和の時代に入った2021年6月1日、3代目へと承継をしました。
昭和、平成と地域のみなさんに信頼いただき、支えられて事業を展開してきました。
新しく令和の時代になっても、当社の家づくりの基本は変わりません。
ZEH・パッシブハウスという高断熱の住まいづくり、耐震等級で見る耐震性能の高い住まい、SNSの普及による家づくりの情報の多様性等々、時代や社会情勢、様々な産業構造の変化がこの住宅業界にも訪れています。
鈴木工務店の家づくりも、祖父の頃からの『自社職人による丁寧な家づくり』はしっかりと受け継ぎながら、その変化にはしっかりと対応してきました。
耐震等級3の認定取得、ZEHレベル以上の断熱性能、省令準耐火とお家の性能を高めるとともに、これからは大工工務店には苦手とされるデザイン面も高めていきます。
〇お客様のわがままを叶える自社職人による現場施工力
〇安心して快適に暮らせる耐震性、断熱性の住まい
〇昭和20年の創業以来積み上げてきた信頼と実績
祖父、父より受け継いできた自社職人の技術を活かし、適正価格にてお客様の大事な家づくりを行い笑顔になっていただく。
それが、当社鈴木工務店の家づくりであり、私たちの信念でもあります。
これからも、1組でも多くのお客様と出会い、そのご縁を大事にさせていただきながら、当社の家づくりを展開していきます。